


たむらやは、明治23年(西暦1890年)に、初代・高橋助次郎によって横浜で創業いたしました。横浜は、幕末まで半農半漁の静かな村でしたが、日本の開国によってその役割は一変しました。外国人居住地が設けられ、東京をはじめとする各地の有力商人がこぞって横浜に出店するようになり、横浜は瞬く間に西洋文化の影響を受けた最先端の都市となっていきました。目覚ましい勢いで変貌を遂げる横浜の中で、高橋助次郎は商店の経営を思い立ち、19歳の時に「米屋岩次郎」(岩次郎は父の名)を創業し、これが「たむらや」に発展して行くことになります。
創業から20年が経った時、助次郎は一府十四県連合共進会で、前橋を訪れることになります。共進会とは、参加府県の物産を一堂に集め陳列し、一般公開するとともに、その成績を審査して表彰する催しでした。これが後に、助次郎と前橋の運命的な出会いとなります。かつての横浜の発展を目撃した助次郎は、前橋の著しい近代化に目を奪われることとなります。
しかし、その2年後、助次郎を悲運が襲います。商いに必要な持ち舟のすべてを、時化で失ってしまったのです。これがきっかけとなり、横浜を引き払い近代化が進む前橋に移ることになります。助次郎は商業の経験を活かして、佃煮・煮豆といった惣菜を商う店「田村屋」を前橋に構え、ここが現在のたむらやの本店所在地となりました。大正2年、創業からすでに23年が経った時のことです。
「田村屋」は順調に業績を伸ばし、初代・助次郎から、二代目・清三郎へ受け継がれました。昭和20年、そこに再び悲運に見舞われます。前橋大空襲です。
街は三日三晩燃え続け、この大空襲によって前橋は、市街地の8割を焼失することとなります。田村屋も例外ではなく、本店、若宮工場が焼失。状況はあたかも33年前に初代・助次郎が持ち舟を失った時に重なります。
昭和25年、田村屋は個人商店を廃業し、「有限会社田村屋」として再出発します。日本が奇跡の復興を遂げると同じように、再出発の田村屋も本格的に始動して行きました。
三代目・高橋政雄によって、昭和30年、みそ漬の製造が進められるようになり、これが現在の「たむらやのみそ漬」の始まりとなるのです。










